のと鉄道株式会社 代表取締役社長 中田哲也
■プロローグ 令和六年一月一日
令和六年一月一日午後四時十分、私は正月を過ごすため、輪島の実家にいました。突然、これまで経験したことのない激しい揺れに襲われました。平成十九年の能登半島地震の際には金沢にいたため、震源に近い場所でこれほどの揺れを経験したことはありません。家そのものが激しく揺さぶられ、いつまで続くのかも分からない中で、本当に死ぬのではないかという恐怖を覚えたほどでした。ようやく揺れが収まり外へ出ると、目の前に広がっていたのは、それまで見慣れていた町とは全く違う光景でした。壊れた家、傾いた家。実家の真後ろ、背中合わせに建っていた三階建ての住宅は、一階部分が押し潰されるように崩れ、建物全体がこちら側へ傾いて実家にぶつかり、その影響で私の家まで傾いていました。その倒壊した家屋の隙間から人の手が伸びているのが見え、近所の方々と力を合わせ、家主を何とか外へ引っ張り出すことができました。
余震が続く中、夜になったからといって眠れるはずもありません。一方で、頭から離れなかったのが、のと鉄道のことでした。社長に就任して、まだ一年にも満たない時です。社員は無事なのか、線路や列車はどうなっているのか、会社そのものはどうなっているのか。気持ちはすぐにでも穴水へ向かいたい。しかし、日が暮れた被災地の道路を走ることはあまりにも危険です。翌朝、明るくなるのを待って会社へ向かうことにしたのです。
翌朝、出発しようと車を見ると、ボンネットにはゴミのようなものがひらひらと無数に積もっていました。その時は何なのか分からないまま車を走らせましたが、後になって、それが輪島朝市の大火災から風に運ばれてきた灰だったことを知ることになります。
午前八時に輪島を出発。普段なら穴水まで二十三分ほどの道のりです。ところが、道路は至るところで被災し、進んでは迂回し、また進める道を探す。その繰り返しの末、会社にたどり着いたのは午後一時でした。いつもなら二十三分の道に、実に五時間を要したことになります。
■第一章 あの日、すべてが変わった
ようやく会社にたどり着いたものの、そこで待っていたのは、復旧への道筋など到底描ける状況ではありませんでした。線路や電気設備は各所で被災し、本社建物も大きな被害を受けています。何より社員自身が被災者であり、それぞれが家族や自宅のことを抱えながら、それでも鉄道を何とかしようと集まってきてくれました。社長になって一年にも満たない自分が、この状況で何を決め、会社をどこへ導けばよいのか。今だから振り返って言えることですが、あの時はまさに、お先真っ暗という心境でした。
本社が被災し、まともな会議室さえありません。そこで復旧に向けた話し合いの場になったのが、元日から穴水駅のホームに留置され、動かすことのできなくなった車両でした。国土交通省、鉄道・運輸機構鉄道災害調査隊、JR西日本など調査に入っていただいた皆さんをはじめ、各方面から支援に駆けつけてくださった方々がその車内に集まり、被害状況を確認しながら、何をどう直していくのか、何から手を付けるのかを一つずつ詰めていきました。車両は動かない。その一方で、その車内では、もう一度列車を走らせるために人が動き始めている。今振り返れば、あの光景は、その後の復旧への歩みを象徴するものだったように思います。
厳しかったのは仕事だけではありません。電気もガスも十分に使えない中、室内には投光器で明かりを取り、達磨ストーブで湯を沸かしました。社員だけでなく、現地に入ってくださった国土交通省などの応援要員の皆さんも一緒になって、湯気の立つカップラーメンをすすったものです。応援の皆さんも、夜になれば快適な宿へ帰れるわけではなく、穴水町役場の会議室で雑魚寝をし、水も出ず、風呂にも入れない環境の中で、本省や北陸信越運輸局との調整などに奔走してくださいました。投光器の明かりと達磨ストーブを囲み満足な食事でないかもしれないが、あの時はこんなにおいしい食事はあるのかと、あの光景は今でも鮮明に残っています。私と社員が一つになった瞬間であったと同時に、会社や組織、立場の違いを越え、復旧に携わる人たちが一つの目標に向かって動き始めた時間でもあったのでしょう。そうした中、外から差し伸べられる手にも何度となく力をいただきました。発災から間もない一月四日には、国土交通省鉄道局の岸谷技術審議官様(当時)から電話とショートメールをいただき、技術面や代行輸送などについて支援の申し出がありました。さらに一月には、北陸鉄道の宮岸武司社長様(当時)が突然、穴水まで訪ねてくださいました。
宮岸社長様と向き合った場所も、やはりホームに止まったままの車両の中でした。「協力できることがあれば何でも言ってほしい。全面的にバックアップする」今でも忘れることのできない言葉です。能登のバス運転士の皆さん自身も被災している中、その言葉は単なる励ましではなく、後の代行輸送を支える具体的な力となっていきました。道路には損傷や迂回路が残り、大型バスを走らせることさえ容易ではありませんでした。それでも道路の仮復旧が進み、一月二九日、ようやく代行バスの運行にこぎ着けます。そこで私の目に映ったのは、バスに乗り込む中学生や高校生の姿でした。交通手段が戻ったことに安堵したような表情もあれば、友達と一緒に通えることがよほどうれしいのか、元気いっぱいの生徒もいる。鉄道はまだ戻っていない。それでも、交通が一つ戻るだけで、失われていた日常が少しずつ動き始める。その姿を見ながら、私たちが取り戻そうとしているものは、線路や列車だけではないのだと気づかされました。
二月十五日には七尾駅―能登中島駅間で列車の運行を再開し、視線は次第に、その先の全線再開へと向かっていきます。私の中にあったのは、「何とか新学期までに」という思いでした。当時のJR西日本金沢支社長の漆原様とも、何とかそこまでに間に合わせたいという思いを内々に共有しながら復旧を進め、四月六日、発災から約三か月で全線での運転再開を迎えることができました。しかし、列車が戻ればすべてが元に戻るほど、現実は単純ではありません。経営者として目の前に現れた次の課題は、「この鉄道に、どうやってお客様に戻ってきていただくのか」ということでした。
■第二章 全国から届いたレールの絆
その答えを探していく中で、発災直後に届いていた一通のメールが、後になって大きな意味を持つことになります。令和六年一月五日、三陸鉄道の石川義晃社長様からいただいたメールです。停電のため届いてすぐに開くことはできませんでしたが、被災へのお見舞いとともに、「お手伝いできることがあれば」との言葉が添えられていました。四月六日に全線運転を再開した後、私は利用者をどう回復していくかを考え続けていました。しかし、被災したばかりの能登へ、通常の観光や交流という形で「来てください」と呼び掛けることには、どうしてもためらいがありました。家を失い、生活再建の途上にある方が大勢いる。その中で鉄道だけが観光誘客を前面に出してよいのか。地域の皆様に理解していただきながら、今だからこそ鉄道にできることはないのかと考えたのです。
心の中に浮かんできたのが、平成十九年の能登半島地震を経験した際に感じていた、震災を風化させず、経験を語り継ぐことの大切さでした。今だからこそ、やる意味があるのではないか。震災を経験した社員が、車窓から見える被災地の姿とともに、自らの経験や復興へ向かう地域の今を伝える。それならば、今の能登へ足を運んでいただく意味にもなり、地域の皆様にも理解していただけるのではないか。そう考えたことが、震災語り部の出発点となりました。ただ、大きな迷いもありました。実際に語るのは私ではありません。語り部となる社員は、自らが経験したつらいことや悲しいことを、そのたびに記憶から呼び起こし、人前で語らなければならない。精神的な負担を考えれば、経営者である私が「やってほしい」と求めてよいものなのか。その思いを拭い切ることはできませんでした。それでも、語り部を担ってほしいと考えた女性社員たちに、なぜ今これをやりたいのか、私の思いを率直にぶつけました。彼女たちも悩みました。それでも最後には、自分たちが語ることで少しでも地域の役に立てるのであれば、やってみたいという思いを返してくれたのです。
そこで思い出したのが、発災直後に「お手伝いできることがあれば」と声を掛けてくださった三陸鉄道でした。東日本大震災を経験し、震災学習列車を続けてきた皆さんの元で、実際に語り続けている人達に会わせたい。その思いから、語り部となるアテンダントを三陸へ送りました。彼女たちが受け取ったものは、単なる「上手な語り方」ではなかったと思います。震災を経験した人が、自らの記憶と向き合い、それでも人に伝え続けている。その姿に触れ、直接言葉を交わしたこと自体が、「自分たちも語っていいのだ」「語ることには意味があるのだ」と思える支えになったのではないでしょうか。
令和六年九月十六日、普通列車で震災語り部を始め、翌年四月六日からは観光列車を活用した運行へと発展させました。その出発式には石川社長様をはじめ三陸鉄道の皆さんにも能登へお越しいただき、前夜には感謝を込めて親睦会を開きました。三陸鉄道の皆さんと私たちのアテンダントが再会し、本当にうれしそうに語り合う姿を目にした時、私自身、胸に迫るものがありました。

震災語り部観光列車
経験した災害も、その被害も同じではありません。安易に「同じ気持ち」と言うこともできないでしょう。それでも、被災の記憶を抱えながら前へ進み、その経験を人に伝えようとする者同士だからこそ、言葉を超えて通じるものがあったのだと思います。今も彼女たちは、時に感情が高まりながら、自らの実体験を語り続けています。精神的に決して楽な仕事ではありません。それでも、自分たちが語ることで少しでも地域のためになるのなら。その思いが、今日も彼女たちを列車に立たせています。
三陸鉄道だけではありません。震災後、全国の鉄道の仲間から寄せられた支援や言葉に、私自身も何度となく支えられてきました。社長業は、時に孤独なものです。とりわけ小さな鉄道会社では、一つの判断が会社の将来を左右し、社員の生活や地域の足、そして何より、お客様の命にも責任を負うことになります。どれだけ周囲の意見を聞いても、最後に決断し、その責任を引き受けるのは自分です。
いすみ鉄道の古竹社長様には、「風に立つライオン基金」の理事長として、さだまさしさんとともに能登へ足を運び、支援していただきました。また、くま川鉄道の永江社長様は、三陸鉄道など他の発起人の皆様とともに支援を呼び掛けてくださり、その輪は全国の鉄道事業者から、企業、鉄道にゆかりのある方々へと大きく広がっていきました。
くま川鉄道の永江社長様から「マスコミでも何でも使って、どんどん発信していかないと」という趣旨の言葉を掛けていただいたことも、強く心に残っています。それまでも情報発信には力を入れてきたつもりでしたが、同じ地域鉄道を背負う経営者からそう言っていただいたことで、自分の進んでいる方向は間違っていないのだと、背中を押してもらったような気がしました。支援とは、お金や物だけではないのでしょう。迷っている時に掛けてもらった一言が、もう一歩前へ踏み出す力になる。震災後の多くの出会いから教えていただきました。

くま川鉄道永江社長(左から3番目)から目録を受贈、有志鉄道会社の皆様(右から3番目中田社長・筆者)【大阪万博記念公園】
■第三章 列車は、復興を乗せて走る
震災語り部とともに、利用回復へのもう一つの柱となったのが「POKÉMON with YOU トレイン(ポケモン列車)」です。全線再開直後の令和六年四月、ポケモン・ウィズ・ユー財団の髙津様から一本の電話が入りました。運行再開を喜んでくださったうえで、財団でも被災地の子どもたちへの支援を始めており、「のと鉄道とも何か一緒にできないか」と声を掛けてくださったのです。私から、ポケモンをデザインしたラッピング列車を走らせられないかと投げ掛けたところ、話はとんとん拍子に進んでいきました。当初は外装から始まった話がやがて車内へ広がり、最終的には座席以外のほとんどがポケモンで彩られることになります。八月一日に運行を開始し、駅を巡るスタンプラリーも始めると、駅や列車は多くの家族連れで賑わいました。利用者数が増えることは経営上勿論大切ですが、それ以上に心に残ったのは、列車を見た子どもたちの笑顔です。震災後の能登で、あれほど多くの子どもたちが喜ぶ姿を目の当たりにし、財団の皆さんへの感謝とともに、やってよかったと心から感じました。
もちろん、全てが最初からうまくいったわけではありません。午前に運行する特別列車は定員110人でしたが、お子さんの利用が多いことを考え、安全面から乗車を80人程度に抑えることとし、希望者がそれを超えた場合には現地で抽選する方式としました。しかし、早くから並んでいただいたのに抽選に外れ、楽しみにしていたお子さんをがっかりさせてしまうこともありました。「子どもたちを笑顔にするための列車なのに、これではいけない」と考え、翌年からは40人分を事前予約で受け付ける方式に改めました。
やってみなければ分からないことはあります。うまくいかなければ、何が悪かったのかを考えて直し、また次へ進む。震災後の利用回復も、そうした工夫と改善を積み重ねながら進めてきました。震災語り部列車は、震災を伝え、今の能登を知っていただく列車。ポケモン列車は、子どもたちをはじめ多くの方に笑顔を届ける列車。形は違っていても、能登へ足を運んでいただくきっかけをつくり、その先で地域の復興につながってほしいという思いは共通しています。

ポケモン列車夏休み特別号スタンプラリーチラシ(表)
■エピローグ 未来へ続く線路
震災から二年半以上が過ぎても、能登の復興はまだ道半ばにあります。私自身、輪島の実家は令和六年に屋根、令和七年に外壁を直し、今年になってようやく、傾いた床や傷んだ内壁の修繕まで進んできました。被災した家屋があまりにも多いため、何を直すにも順番を待たなければなりません。鉄道が全線で走り始めても、一人ひとりの暮らしまで同じ速度で戻るわけではない。自分自身の生活を通しても、復興というものが長い時間を要する営みであることを実感しています。だからこそ会社についても、震災前の状態へ戻すだけで終わってはならないと考えています。
令和七年四月には、実際の震災対応で見えてきた課題を踏まえ、災害時の対応を大幅に見直しました。経営陣と連絡が取れない時、現地にいる者は何を基準に判断し、どう行動するのか。社員一人ひとりは、どのような状況で出社するのか。発災時には「指示を待つ」ことそのものができなくなる場合がある。その現実を経験したからこそ、あの日の教訓を記憶だけにとどめず、会社の仕組みとして次へ残していく必要があります。人材の面でも、震災は大きな影響を残しました。社員自身が被災し、生活を再建するため金沢市やその周辺地域などへ移り住み、予定していなかった退職者も出ています。人材確保も決して容易ではなく、県外から「能登の復興に役立ちたい」と応募してくださった方に採用決定を伝えたその電話で辞退され、さすがに心が折れそうになったこともありました。採用を続ける中で、今では県外から二人が能登へ移住し、私たちの新しい仲間として働いてくれています。人口流出が続く被災地へあえて生活の拠点を移し、ここで働くことを選んでくれた人がいる。その事実に、私はこれからの可能性を感じています。
そして今、のと鉄道では新型車両の導入を進めています。外装デザインそのものは石川県デザインセンターにお願いしましたが、最終的にどのデザインを採用するかは全国の皆さんの投票に委ねました。被災した私たちを全国の皆さんが支えてくださったからこそ、その先の未来を走る車両も、皆さんと一緒に選び、その誕生を見届けてもらいたいと考えたからです。新しく加わった仲間と、これから走り始める新しい車両。そのどちらにも、私は能登の未来への希望を託しています。
ただ、希望だけを語っていれば鉄道を守れるわけではありません。全国の地域鉄道は人口減少という大きな流れの中にあり、少子化によって通学利用を支えてきた学生も減り続けています。能登では、そこに震災後の急激な人口流出まで重なりました。地域鉄道を守っていくための工夫と努力に、これで十分というところはないのだと思います。まして、のと鉄道は公的な支援をいただきながら走っている会社です。自分たちがやりたいことをやるのではなく、一つひとつの取組が地域の皆様に理解され、「この鉄道は地域に必要だ」と思っていただける方向を向いているのか。そのことを常に自らに問い続けなければならないと考えています。
令和六年一月、投光器の明かりの下で達磨ストーブを囲み、社員や応援に来てくださった皆さんとカップラーメンをすすっていた頃には、その先にどのような未来が待っているのか、全く見通すことができませんでした。それでも、一人、また一人と手を差し伸べてくださる方が現れ、その言葉や行動に支えられながら、列車を戻し、人を呼び戻し、そして今、次の時代を走る車両を迎えようとしています。能登の復興に何年かかるのか、今はまだ分かりません。それでも、いつの日か、この美しい里山里海と人々の暮らしを取り戻したい。そして、その歩みの中で、地域から必要とされる鉄道であり続けたい。あの日、動かなくなった列車の中から始まった私たちの歩みは、まだ途中です。多くの皆様への感謝を胸に、これからも地域とともに、未来へ続く線路を走っていきたいと思っています。
―熊本の皆様に心を寄せて―
この度の令和八年熊本地震によりお亡くなりになられた方々に、謹んで哀悼の意を表しますとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。能登半島地震では、私達も全国の多くの皆様から温かいご支援をいただき、その一つひとつに励まされながら今日まで歩んできました。だからこそ今、被災地の苦しさを経験した私たちから、熊本の皆様に心を寄せたいと思っています。一日も早く復旧・復興への歩みが進み、地域の皆様の日常が少しずつ取り戻されていくことを、能登の地から心より願っています。のと鉄道では、その思いを込めたヘッドマークを車両に掲げ、熊本の皆様に心を寄せながら、今日も能登を走っています。

ヘッドマーク「熊本の皆様に寄り添って 08.19」