プロローグ
平成二十六年六月、生後二か月になる一匹の猫が、会津鉄道芦ノ牧温泉駅に貰われてきた。アメリカンカールの青い目をした可愛い子猫、それが「らぶ」だった。
駅を闊歩する「らぶ」は、いつしかみんなの人気者となり、名誉駅長として、毎日元気にその務めを果たしていたのだが・・・、令和四年十月五日、芦ノ牧温泉駅二代目名誉駅長「らぶ」は、八年の生涯に幕を下ろした。
それは、余りにも早い別れであった。
駅に住み着いた初代名誉駅長「ばす」
あれは、遡ること二十四年ほど前、芦ノ牧温泉駅近くの村の中を、タヌキのような風
貌をした一匹の猫がさまよっていた。それを、近所の子供たちが見つけ、駅に連れてきた。それが、のちに有名になるこの猫と、会津鉄道との関わりの始まりだった。
駅員らが毎日世話をするうちに、いつの間にか、駅の待合室に住み着くようになった。この猫こそ、のちに芦ノ牧温泉駅初代名誉駅長となる「ばす」である。「ばす」は、決して人に媚びるようなことはなかったが、そこはかとない優しさを秘めたその雰囲気が、いつしか地元の人々の心を虜にしていった。会津鉄道の列車でお越しになった大勢のお客さまを、ホームで出迎える、凛々しくも愛くるしいその姿が話題となり、メディアを通し全国に報道されるや一躍有名になっていったのである。それから十五年が過ぎたある日、すでに高齢となっていた「ばす」の後継ぎとして、一匹の猫が駅にやってきた。それが「らぶ」である。
駅長見習いとなった「らぶ」に、「ばす」は時には優しく、時には厳しく接した。その様子は、あたかも自分の余命を悟っているかのようであり、親から子へ最期の何かを伝える姿にも思えたものだが、薫陶を受けた「らぶ」は、次第に一人前の駅員へと成長していくのであった。
しばらくして、運命の時がやってきた。平成二十八年四月二十二日、「ばす」は、病床からそ
の日の最終列車を見送ったあと、駅員らに見守られ、黄泉の国へと旅立った。
「らぶ」に駅長を引き継いだ際に贈られた「初代ご長寿あっぱれ名誉駅長」の名に恥じぬ、立派な「ぽっぽや」として、まさにあっぱれな最期であったといえよう。駅に住み続けてから十七年、推定年齢十八歳の生涯であった。
思えば、いつも凛としてホームに佇む「ばす」の後ろ姿は、愛弟子である「らぶ」にとっても、大きな背中に見えたに違いない。『後を頼むぞ。』という「ばす」の心の声が、「らぶ」にもしっかりと届いていたに違いないのだ。この日から、「らぶ」の奮闘の日々が始まったのである。
二代目名誉駅長「らぶ」の誕生
生まれて間もない頃から、とてもやんちゃで好奇心旺盛な「らぶ」は、いつも元気に動き回っていた。草むらへ行ったかと思えば、桜の木や駅舎の屋根に登ったりと、駅は「らぶ」の格好の遊び場ともなっていた。そんな日々が続いたある日。あれは、生後十か月が経った頃のこと、元気が有り余る「らぶ」は、線路に飛び出し列車に接触してしまったのだ。幸い後ろ足の骨折だけで済んだのだが、その時受けた検査の結果、それまで、誰もがメスだとばかり思っていた「らぶ」が、実はオスと判明したのだ。
「らぶ」という名は、英語のLOVEからとったものだが、それでも、この女の子のような名前は、決して変えられることはなかった。みんなにとって、この子は「らぶ」以外の何物でもなかったからである。
「らぶ」が一歳八か月になった頃、名誉駅長の交代式が行われた。「らぶ」は「ばす」から名誉駅長を引き継ぎ、ここに、二代目名誉駅長が誕生したのである。
大好きな駅で働く「らぶ」
しかし、初代名誉駅長「ばす」の存在が余りに大きく偉大だっただけに、果たして「らぶ」に名誉駅長が務まるだろうか、誰もが少なからず不安を抱いていた。
しかし、そんな心配も、杞憂に過ぎた。いつの間にか「ばす」の教えを、忠実に引き継いでいるではないか。気品のある顔立ちの中に、凛々しい目をした「らぶ」。威風堂々として、大好きなホームに立つその姿は、「ばす」を彷彿させるに十分な存在感があった。誰もが、在りし日の「ばす」と、重なって見えたに違いない。
「らぶ」は、人が近づいたり触られたりしても、決して嫌がらず、人見知りをしたりすることもない。どちらかといえば、いつも漂々として静やかで、それでいて愛くるしさが際立つ、そんな独特な雰囲気をもっていた。そこが、人々を惹きつけて離さない、大きな魅力だったのかもしれない。そんな「らぶ」は、各地に出向いては、会津鉄道は言うに及ばず、会津地方や福島県を広くPRするなど、働くねこ駅長として、立派にその務めを果たしてくれたのだ。
そして、いつしか「らぶ」は、「美猫のらぶ駅長」と呼ばれるようになり、「ばす」をしのぐほどの人気を集めるようになった。おそらく、彼にとって、そんなことは、全く預かり知らぬことだったかもしれないが・・・。
ともあれ、「らぶ」は、暗い世相が続く中にあっても、常にその愛くるしさで、多くの人々の心を、癒し続けたのである。
虹の橋を渡った「らぶ」
令和四年七月十六日、会津鉄道開業三十五周年記念式典が催された。この日、「らぶ」をモチーフにしたラッピング列車も、お披露目された。もちろん、出発式のホームでは、主役の「らぶ」が駅長に抱かれ、列車の傍らで、報道陣の取材に応じていたが、その落ち着き払った様子が、いつにもまして頼もしく、忘れられない。
さらに、「らぶ」たちが主役を務める映画「劇場版【にゃん旅鉄道】の先行上映会」も行われた。
「らぶ」にとって、この日は、彼の生涯で最もスポットライトが当たった瞬間ではなかっただろうか。名誉駅長に就いて、六年七か月が経った日のことである。
二週間後、「らぶ」は定期健診を受けた。だが、獣医師から告げられた診断結果に、誰もが耳を疑った。「慢性腎臓病」それは、七歳から八歳頃に発症しやすく、とくに純血種に多い病気らしいのだが、誰もが、心に強い衝撃を受けたことは、言うまでもない。懸命の治療が施され、療養を続けたが、皆の願いも虚しく、「らぶ」は、十月五日、黄泉の国へと旅立ったのである。
翌日「らぶ」は、家族が立ち会う中で、荼毘に付され、ひと月後、月命日となる十一月五日「お別れ会」がしめやかに営まれた。当日は、全国から一千名の人々が別れに訪れたのだが・・・。その日は、いつにないほどの晴天だった。
しかし、式が始まると、空が鉛色に染まり始め、雨粒が落ちてきた。ところがである。警笛に合わせ合掌をし、式の結びに、駅長が涙で言葉を詰まらせながら謝辞を述べると、次第に雨は上がり始め、青空が広がった。
『涙雨か。』誰もがそう思ったその時、空を見上げると、そこには七色の虹が架かっていた。おそ
らく「らぶ」は、その虹の橋を渡り、「ばす」の待つ天国へと旅立ったのだろう。
式後、大勢の人々が、祭壇の前に並んだ。『お疲れさま。ゆっくり休んでね。』ハンカチで目頭
を押さえる人、遺影の前で深々と首を垂れる人、震える手で花束を供える人、別れを惜しむ大勢の姿が、そこにあった。これほどまでに、みんなから愛された「らぶ」は、誰よりも幸せ者だったのかもしれない。
エピローグ
療養中も、自宅から駅の方を見つめていたという。駅舎に連れて行くと、足取りは、確かに弱弱しいが、嬉しそうにホームを歩くその姿。「らぶ」は駅をこよなく愛し、最後まで駅長であった。
頭の上にちょこんと載せた小さな駅長帽、雨の日の見回りに身に着けていた黄色いレインコート、そのどれもこれもが、今はただ悲しげで、瞼に焼き付いて離れない。多くの人から愛され、多
くの人たちの心に癒しを与え続けた「らぶ」。
大好きな芦ノ牧温泉駅での日々を、走馬灯のように思い出し、今日も、会津線を走る幾本もの列車を、きっと眩しそうに眺めていることだろう。「らぶ」という名のねこ駅長、八歳六か月の生涯
であった。
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